小学一年生の時の成績表が出てきた。

 

地下鉄

 

母の家を片付けた。

物のない時代に育った母は、この豊かな今になっても物を捨てることができない。雑誌も丁寧に読んでからケースにしまっていく、頂き物の包装紙は綺麗にたたんで小箱に入れている。。。それを何十年とやっているのだから、家が物で溢れるのは当然だ。

私は母と全く似ていないのだが、こと片付けについては、互いに異星人かと思うほどに違う。私はとにかく自分の身の回りに物を置きたくないタイプなので、すぐに捨ててしまうが、それで大事な書類を何度無くしてしまったか。。。不注意で容赦ない捨て方が私の持ち味だ。

母から言わせると「捨て魔」の私が母の家を片付けるのだから、母はとにかくハラハラしどうしだった。私は押入れの前に陣取り、どんどんと捨てる物をビニール袋に詰め込んでいくのだが、ふと振り返ると、母がゴミ袋に頭を突っ込んで取り出している、といういたちごっこを繰り返した。

そんな私の手がふと止まったのは、大量の昔の写真の中から出てきた私の成績表だった。

小学校低学年の頃の私は、本当にぼんやりしていた。家族の誰もがそう思っていたし、先生にも感じ取られていた。そして何より自分でもそれをよくわかっていた。頭の中に膜がかかっているというか、曇りガラスのメガネをかけているようだな、と周りのことを思っていたものだ。でも、自分がどんな成績を取っていたのか、そして担任の先生が私について何を書いていたのか、全く記憶になかった。

成績表を開けると、可もなく不可もない数字がならんでいたが、担任の先生の言葉にひかれた。「。。。まだ繭の中で眠っているようなところがみられます。」まさに言い当てて妙だ。また、よほどぼんやりだったと見えて、生活欄のところには「注意力が甚だしく劣る」となっていた。

ビニール袋に頭を突っ込んでいる母に尋ねてみた。

「そうねぇ、『花壇にチューリップが5本咲いていました。そこから2本切り取りました。花壇に咲いている花は何本になったでしょう。』というような算数の問題には『切りたくありません』とか答える変な子だったのよぉ。」とケラケラ笑った。

 

ふと、テレビ台の上を見ると、捨てたはずの小さな折り鶴がちょこんと鎮座していた。母と案外似ているところもあるかもしれない、と思った。

 

 

 

万年カレンダーの響きが好きだ、と前にも書いた。いつまでも時は続いてくれると保証をしてくれているようだからと。万年カレンダーをどこかでみつけると、どうしても買いたくなってしまうのだ。

Künstle

 

Künstle2

一つ目の万年カレンダーは”Kuenstle”(キュンストレ)という家の内装、暖房システムなどを専門に扱っている会社の宣伝用カレンダーである。この会社は今もあるのだが、今時珍しくウェブサイトがなく、その会社の歴史などを調べるすべが残念ながらない。メッチンゲンというアウトレットですっかりドイツ人には有名になっている場所にあるようだ。宣伝用物販は、限定品のせいで高く取引をされる物も多い。ボディを回すたびにカチャンカチャンと耳に心地よい音がして日付が変わる。

 

 

万年カレンダー2

万年カレンダー2

 

もう一つのカレンダーは、子供だましのようなちゃちな作り。この安っぽく、レトロな感じになんとなく惹かれてしまうのは、私だけだろうか。子供の時に誰もが持っていたような、旅行先のおみやげ屋に並んでいたような。。。絵柄の違う物も多く出回っているようなのだけれど、なぜかしらどこでもお高い値段がついている。なぜなんだろう?と少々なぞの一品である。

 

 

万年カレンダー3

万年カレンダー3

三つ目は、なかなか上品な万年カレンダー。金属製の台座を皮革で丁寧に覆い、日付や曜日などを回すつまみは必要以上にきっちりとした大ぶりな作りになっている。100年だって200年だって十分これからも残っていきそうな頑丈さである。

 

 

クルクルつまみを回すだけで過去にも今にも未来にも簡単に行ける万年カレンダー。子供の頃の成績表一枚で、あるいは一枚の写真だけで、私たちも実は簡単に時間の軸を超えて旅をすることができる。

 

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